垂れる

 『首のたるみが気になるの』という題名のエッセイを読んだことがありますが、年取ったら太る→肉がつくというよりは、たれてくるというのが実感です。

 まぶたしかり、首しかり。まぶたや首に新たに肉がついたというより、もともとある皮?がたれてくる。たるみができて、皮と皮が重なり、しわっぽく見える。しわっぽいと年取って見える。(運がいい友達は、そのおかげで一重の目が二重になりましたが。)それで、大きく目を見開いたり、上を向いて舌を天に向かって突き出すといった、たるみをどうにかするための運動をしてみる。

 おしりやおなかについては、たしかに「垂れる」だけでなく、新たな肉がついてきているのかもしれません。ですので、も少しハードなプランクであったり、片膝をついてもう片方の足を上げ下げするといった運動にがんばってとりかかってみる。

 でも、たれぱんだのように、全身たれていれば、気にならないのかもしれないけどね。

うなぎ 

うなぎは特別な時しか食べない。

そのせいか、逆にうなぎを食べると、特別なお祝いなどなくても、格段にスペシャルな時になる。

うなぎのあのふんわりほわほわ脂ののった触感は、人を幸せにする。

そして、食べる前から、ただよってくる、ちょっと香ばしく焼いた甘い醤油の香り、誇張じゃなく、それだけで白いごはんが食べられる。実際、そのにおいをつまみに日本酒をいただいた。そしてしっかり焼き目のついた肝焼き(日本酒に合う)と、ほどよく漬かって辛すぎないキュウリのぬか漬けとほんのり甘みのある大根のお漬物。そしてかすかに柚子の香が香るだし汁がおいしい肝吸い。ごはんとうなぎ、そして肝吸い、ご飯とうなぎ、そして日本酒、ごはんとうなぎ、そしてお漬物、そこに肝焼きをはさみながら、一口一口味わいながら繰り返す。おいしいね、おいしいよ。うなぎのおいしさの6割は触感、4割がタレのおいしさだと思う。脂ののったうなぎには山椒も欠かせない。

そして、とうとう最後の一口。食べてしまうのを惜しみつつ、パクっと一口。最後のお漬物をいただき、肝吸いを飲み干し、ごちそうさまでした。ああ、おいしかった。がんばろう!という気持ちになる。平日のうなぎは、より贅沢に感じられる。しかもゆったりした個室でいただいたので、しばし旅館に来た気分にも。

うなぎを最初に食べてみた人にも、ご飯に乗せた平賀源内にも感謝。

 

ちょっと調べる

  十五夜と十三夜のお供え物など、ちょっとわからないことがあると、すぐにネットで調べることができる。もやもやが解消され、スッキリする。

  ただ、「ちょっと調べよう」と思って、スマホを開いて、目に入ったことをを見てしまい、そしてその後延々と関連した別のことを眺め続け(見るというより眺める感覚)、しばらくしてから、そもそも何を調べようと思っていたんだっけ?ということがよくある。また、「ちょっと調べ」て、ああそうだったのか、すっきりしたということも、その後すぐに忘れてしまうことが多い。

 すぐに「ちょっと調べられる」便利さを甘受するより、ネットで、主に一時的な情報を得る時間が、いつのまにか他のことをする時間を大幅に減らしているのに気付いた今、それにストップをかけたいということが、今日のわたしの思うところである。

財布

 財布を落としたことが2度ある。紛失に気づき文字通り青くなった。血の気が下がり、頭がひんやりする感じ。1度目は出てくるまでにしばらくかかり、じりじりとした長い長い日々を過ごしたのに、また落としてしまった。2度目はシラフだったのに、落としてしまった。

 財布は使ったらすぐにしまい、バッグのチャックを閉めよう。エコバッグなど口がしまらない袋には、財布を入れないようにしよう。荷物はなるべく3つ以上に分けないようにしよう。時間が空いたらすぐスマホを見るのはやめにしよう。万が一のために、財布に入れているものの一覧を作っておこう。2度目の紛失で思ったのはこのようなこと。なんにしても、2回とも出てきたので、感謝です。

 

 

「死」について

 最近は、自分の体調も良く、また近いところで亡くなる方がいなかったので「死」について意識することが薄れていたのだが、死にまつわる本を読んで以来、自分の中のアンテナが立ったのか、「死」に係ることに心を留めることが増えた気がする。

 その本に書いてあったように、自分の死も人の死も自分から遠いものにしないように「死に慣れる」ことをしておいたほうがいいように思う。以前から、近しい多くの人について、その人が死んでしまうことをふと思いついてしまうことがあり、そのこと自体を後ろ暗く感じることがあったが、そう感じなくてよいのだと気づくことができた。

 小さい時は、身内が亡くなることが続き法事が多かった。思い出すのは、笑ってはいけないと思わされる空気、朗朗としたおしょうさんの声、ミュージシャンさながらのテンポに変化をつけた銅鑼を打ちながらの読経、そしてメンコ(のようなもの)のまき散らし。そしていつも心にしみいる講話。同年代の親戚が多かったため(また、おそらく子供であったため)、人の死や火葬場について、大きなダメージを受けることなく受け入れてこられたのだと今気づく。

 今後も「死」を遠くに追いやらず、肩の上に乗せるかんじで意識してゆきたい。

日々の楽しみ

 毎日、ちょっとずつ読んでいた漫画を読み終えてしまった。また毎日読んでいた新聞小説も最終回を迎えてしまった。今後もそれらの内容を思い出して味わうことはできるけれど、会社へ行く前に、また会社から戻ってきてから、今日の内容はどんなかなとわくわくしながら一つ一つ新しい話を読むことはもうできない。ただ、もうひとつ、毎日見ているドラマがまだ続いていることが幸い。

音の娯楽

 小さい頃、扁桃腺が腫れて熱が出ることがよくあった。そんな時は、横になりながら、お話のテープを聞いていた。その名残なのか、具合が悪くなって寝るときは、音の娯楽(今ではラジコやPodcastなどコンテンツがあふれるほどあり、オールナイトニッポンなど深夜ラジオも時を選ばず聞けるのが嬉しい。)から耳福をもらう。体はしんどいけれども、心を楽しく動かしてくれる。普段あまりラジオを聞かないので、その非日常感でよりいっそう心躍る。

 なお、症状がつらいときには、気軽に聞けて(途中で聞き逃したり、眠ってしまっても気にならない)、思わずうははと笑ってしまう『お笑いコンテンツ』がおススメです。